E-CUBE 2003年09月

VOL.20 9月号


NZで活躍する日本人

時代を飾るキウィ




Career up in NZ : 専門職に就いてキャリアアップ中

<ビザコンサルタント:岡上 恭子 さん | メイン | 日本語 スペイン語 教師:稲葉 悦子 さん>

セラピックマッサージ:トモコ・グリフィン さん

トモコ・グリフィン さん患者さんの名前を正確に発音するように心がけています。

 オークランドのベッドタウンであるノースショア市でTherapeutic Massage 、Reiki Practitionerとして活躍するトモコさん。指圧、カイロプラクティック、サプリメント、薬草、気功、温熱など民間治療と呼ばれる近代西洋医学以外の代替医療の中の一つにトモコさんのセラピックマッサージ、レイキ治療がある。トモコさんが診る患者さんはほとんどがキウイのため、英語でのコミニケーションは必須。その最初の一歩は相手の名前を正確に覚えることだと言う。

トモコ・グリフィン
Tomoko Gurifin
Therapeutic Massage 
Reiki Practitioner
横浜市出身。82年に初めてニュージーランドに留学して、この国で暮らす事を決める。日本へ帰国後はJICAで働き、86年に再びNZへ。ツアーガイドに従事する。その傍らマッサージの専門学校に通い、セラピックマッサージのディプロマを取得。2000年8月よりBirkenheadの自宅で「IYASHINOTE CLINIC」(癒しの手クリニック)を開業。連絡先は09-480-4834(自宅での開業のため看板等はありません)

英語との関わり

 興味を持ったのは小学生のときでした。世界を旅行していくテレビ番組をいつも観ていて、自分もいろいろな国に行ってみたいと思っていました。そのため、英語が喋れるようになりたいと漠然と思っていました。そんなときに偶然、近所で英語を教えているクラスを見つけてそこに通い始めました。そこでは英語の絵本をネイティブの録音テープで聞くという内容で、和訳や単語の説明は一切なし。そのまま英語を耳から入れるというものでした。今でも頭の中にあるのは、雪だるまが溶けて水が滴り落ちるときの「ポタンポタン」という日本語の表現が、英語では「Drip Drip」であるということを感覚的に覚えたんだということです。そのため、中学に入ったときは英語という新しい教科に対しての恐怖心はありませんでした。
 中学の授業では大変ユニークな先生に教えてもらいました。私の学校は公立の普通の中学だったのですが、この先生は英語の授業を全部英語で行っていたのです。もちろん日本の中学の英語の授業ですから、和訳などもありましたが、それ以外は全て英語でした。

習得方法1

 英語クラスや学校の授業で英語は私の好きな科目だったので、それなりに勉強もしていました。それはどちらかと言えば、文法が中心でした。私の場合はノートをしっかり作っていました。まず教科書の英文を全て書き出します。そしてわからない単語に赤線を引き、その下にその単語の意味を書き、更にその一段下に文章の意味を書くというように3段使ってノートを作っていました。
 しかしあることがキッカケでさらに英語に取り組むようになったのです。それは私が当時よく参加していたYMCAのキャンプで海外から来る人たちと上手くコミニケーションができなかったからです。
 それからは声に出して読むことをよく行いました。先ほどのノートは教科書を写したものですから、何度も読み、暗記するくらいになりました。また会話構文のテキストを何度も繰り返していました。その際に、なるべく自分で英語らしい発音を意識して読むようにしていました。ただ、本当のネイティブの音を聞く必要がありました。現在のように英語教材のテープやCDがあまりなかった頃なので、私は映画を利用しました。そこで見つけた気に入ったフレーズを何度も何度も声に出して練習しました。特に舌がついていかない単語やフレーズは上手く発音できるまで繰り返しました。中学、高校と学校の勉強以外にこの発音の練習を続けていました。また鏡に向って表情をつけながらの練習もしました。これによって自分が今発音している意味を視覚でも理解することができたのだと思います。

習得方法2

 その後、大学でも、働き始めてからも英語への興味が常にあったので、英語学校に通ったり、英語のサークルに参加していました。しかし、いくら日本で英語を勉強していても実際に話をするチャンスがなかなか巡って来ません。そこで海外に出て英語を使って生活する環境に飛び込んでみたいと思ったのです。それで82年にスチューデントでニュージーランドに来ました。私が知る限りでは、その頃はオークランドには英語学校が2校しかなく、まだ学校のシステム自体も整っていませんでした。そのため、クラスの中にいろいろなレベルの人が混ざっており、自習しなければならない時間が多かったのです。これではあまり役に立たないと思い、オークランドから南に行ったケンブリッジに滞在場所を代え、それと同時に学校も代えました。
 私は日本にいるときから英語に興味を持っていたので、自分では十分に勉強をしてきました。英語学校でもサークルでも日常会話までは大きな問題もなく過ごしてきたのです。ですから、来た当初でも、ある程度は英語に対して自信がありました。実際にオークランドの学校でも私の求めている内容ではなかったため学校を代えようと思ったのです。
 しかし、ケンブリッジでホームステイを始めてすぐにその自信は吹き飛んでしまいました。ホストマザーの言葉が速すぎてまったく聞き取れなかったのです。 日本の英語学校で上級クラスにいて先生と普通のスピードで会話をしていたと思っていたのですが、それは大きな間違いでした。実際に英語の国に来て、普通に話をしている人に混ざれば、今まで会話をしていた英語はゆっくりと丁寧に喋っていてもらったのだと今さらながら気づいたのです。幸いホストファーザーはゆっくりと話をしてくれる人だったので、お母さんが喋る、私が理解できない、そこでお父さんの顔をじっと見る、するとお父さんがもう一度言い直してくれる。という具合に会話が進められていました。このときは英語に対して、恐いと思っていました。何もわからない、何も理解できない恐怖があったのです。お母さんのスピードに慣れるまでは2ヶ月くらいかかりました。
 英語のスピードに慣れ、この恐怖を克服するために、まず毎日ニュースを観るようにしました。ニュースでは標準的なスピードと標準的な発音の英語を聞く事ができると思ったからです。そしてお母さんに積極的に話しかけるようにしたのです。はずかしがらずに何度も話しかけ、聞き取れない単語はわかるまで聞き返しました。それでもほとんどの単語はわかりません。そこで、紙に書いてもらってスペルを見て確かめて、理解していました。聞き取れない単語と言うのはたいていは、10回聞こうが、20回聞こうがわからないことが多いので、書いてもらうのが一番だと思います。
 この留学で私はニュージーランドに住むのだと決めていました。それは日本とはあまりにも違っている時間の流れ方、そしてキウイの時間の使い方であったり、ちょっとしたライフスタイル、例えば、日本では友達と会おうということになれば、カフェとかレストランでということがほとんどでしたが、ここではそうではなく、そのまま友達の家に約束もなしに直接行ってしまいます。私が住んでいたところが、カントリーサイドと言うこともあり、特に休日にはお互いの家の行き来が多かったのです。それがすごく心地よく感じられました。

英語での仕事

 留学が終わり日本に帰ってからはJICA国際協力事業団で働きました。そこでは通訳だけでなく、電車や映画のチケット手配から病院に連れて行くまで、海外研修生の日本での生活のお手伝いを全般的にしていました。そして86年にニュージーランドに再び戻ってきたのです。留学のときに自分はここに戻ってくるのだと決めていましたので、いろいろなところに仕事のアプライをしており、ちょうどその時に旅行会社から声がかかり、ガイドとして働くことになりました。そこで今でも覚えている失敗があります。それはツアーのガイドだけでなく、通訳業務も入っていたツアーで、日本からニュージーランドの治水事情を視察に来たものでした。
 ニュージーランドで一番長いワイカト川は洪水になった時に決壊する前に川面より低くなっている一般道路を通じて湿地帯に水を逃がす構造になっている個所があり、そういった場所の見学や、カンファレンスがありました。朝一番からのカンファレンスルームでの会議では6、7人の自治体や建設会社の人が出て来てワイカト川についての説明、そして矢継ぎ早の質疑応答でした。その後休む間もなくバスで現場を廻りました。その車中でも説明は続けられました。そして、バスの中で私はある瞬間から頭の中が,真っ白になってしまったのです。英語を聞き、それを訳そうとするのですが、まるで自分がまったく知らない言葉、たとえばロシア語とかアフリカの言葉とか、そういった音声が聞こえてくるだけで、相手が言っている英語が一切理解できなくなってしまいました。そんな体験は私も初めてで、その時の状態を今でもほとんど覚えていません。結局は私の異変に気が付いた相手が後で資料を渡すからと言うことで収まりました。休憩時間ゼロ、そして専門用語のオンパレードで長時間緊張が続いたのでしょう。 それがなにかの拍子で切れてしまったのだと思います。

習得方法3

 その後も旅行会社での仕事を続けながらマッサージの学校に通い始めました。日本の友人が針灸師だったため代替医療に興味があったからです。グレイリンにあったWellpark Collegeという医療関係の専門学校です。ここは当時、治療を目的としたマッサージの学校としてNZQAに認定された学校の内の一つでした。講義は解剖学や生理学を中心に実技等も含めて行われました。
 人間の筋肉を覚えるのにはカードを使いました。12センチ×7センチの大きさの紙に筋肉の部位を書き込み、裏にはoriginどこからその筋肉がでているかを黒いペンで、insertion接続部を青いペンで、action動きを緑のペンで、nerve神経を赤いペンで書きました。色を変えたのはパッと見ただけで分類がわかるようにしたかったからです。これをバスの中で何度も覚えました。また教科書を各章ごとに切り刻んでカバンの中に入れていつも持ち歩いていました。そのため私はマッサージの教科書は2冊買いました。
 普段聞きなれない単語が出てくるために毎日が英語との格闘でもありました。そしてこのときに感じたことは、ネイティブと私との間のハンディでした。あるテストの口答試問のときに胸部の筋肉Pectoralis Majorはどこ?と聞かれたのですが、私はあわてて全然違う部位を答えてしまいました。テストの後で友人とそのことを話していたときに「どうして間違えるの?だってペクトラルって胸ってことじゃない」と言われたのです。それまで私はチェストとかブレストという言葉は知っていましたが、ペクトラルという言葉は使ったことがありませんでした。日本語に例えるなら、ムネ、というのは日常の会話で使いますが、キョウブという言葉は普段使いません。しかし、ほとんどの日本人は、キョウブは胸のことだと理解しています。つまり私は英語で言う、キョウブを知らなかったのです。これを克服する具体的な解決策はいまだにわかりません。本を読んだり、テレビを見たり、とにかく語彙を増やすしかないと思っています。

仕事の中の英語

 現在はTherapeutic Massage 、Reiki Practitionerとして個人で開業しており、肩凝りや腰痛、職業病からくる腱鞘炎やスポーツによるケガや筋肉の凝りの治療をしています。また治療の方法の一つとしてレイキというヒーリング手法も行っています。この国には私のようなマッサージを行っている人間の集まりとしてマッサージ協会があります。そこでは協会員の技術のスタンダードをキープするために毎年最低20時間以上のワークショップに参加するなどの規定を設けてあります。私の患者さんは90%が地元のキウイです。
 そういった仕事の中で、これも英語の勉強の一つでしょうか、特に患者さんの名前を正確に呼べるように努力しています。患者さんに接する時に相手の名前をちゃんと言うことはお互いの信頼関係を作るのに大切です。私はここでもホームステイの時と同じように聞き取れなければ書いてもらい、正確に発音するようにしています。
 この国でも最近は代替医療と言うものが見直されつつあります。もちろんそれにより全ての病気が治るというわけではありませんが、患者さんに治療方法の選択肢が増えることは必要だと思います。マッサージやレイキをもっとポピュラーなものに広げる為にも信頼関係の上に成り立つコミニケーションは必要不可欠なものだと思います。

TOMOKOさんの英語上達法

  1. 教科書を全てノートに写し単語と文の意味も書く。それを丸暗記。
  2. 聞き取れない単語は、何度聞いても同じなのでスペルを書いてもらう。
  3. 単語カードは色を分けて書くことで視覚的にも覚える
  4. 教科書を切って、普段から持ち歩いて空いた時間に目を通す。
セラピックマッサージ:トモコ・グリフィン さんと連絡を取りたい、勉強したい、体験したい、資格を取りたい、この分野で仕事をしたいと言う方はイーキューブ留学セクションまで、お問い合わせ下さい。

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