E-CUBE 2003年10月

VOL.21 10月号


NZで活躍する日本人

時代を飾るキウィ




時代を飾るキウィ :イーキューブのブレーンやアドバイザーとなるNZのセレブやキーパーソン

<ロックバンド:The D4(ザ・ディーフォー) | メイン | ニュージーランド・ファッション・ウィーク社社長:Pieter Stewart さん>

ラグビー国内選手権NPCオークランド監督:Wayne Pivac さん

Wayne Pivac さんオークランドが強い年はオールブラックスも強いのです。

 8月半ばから、今年のラグビー国内選手権NPC(Natioanal Provincial Championship)が開幕した。10月までの役2ヶ月半の短い大会だが、国内大会では世界では世界で最も高いレベルにあると言われ、毎年この時期には世界中にラグビー関係者の注目を集める。
1998年以来、ニュージーランドのラグビー勢力地図は南島のカンタベリー地区が中心で、それに歯止めをかけ、オークランドを復活させそうだという手腕が大きく評価されているのがウェイン・ピバックだ。2003年のスーパー12でのオークランド・ブルーズの1997年以来の優勝は、彼が尽力した2002年のNPCオークランドの優勝が原動力になっていることはあまり大きく取り上げられない。
 今年は10月と11月にオーストリアでラグビーワールドカップが開催され、オールブラックスに選ばれた選手はNPCに参加することができないため、見せ場のある試合が観られないと噂されているが、どの試合も点差の広がらない、観ていておもしろいシーソーゲームになることが予想される。自ら発掘し、育て上げた才能のある若い選手で優勝することができれば、今後のラグビー勢力地図は当分の間オークランドを中心に回ることを証明できると、その結果を楽しみにしている。

Wayne Pivac
Air New Zealand NPC Auckland Coach
ウェイン・ピバック
ラグビー国内選手権NPCオークランド監督

1962年オークランドのデボンポート生まれ。5歳よりタカプナ・ラグビークラブでプレーを始め、以来、オークランドBチーム、オークランド・コルツ(21歳以下代表)などに選ばれる。警察官、市役所職員、電気工事会社経営などの仕事のかたわら、監督としてタカプナ・クラブ、ノースランドなど地区代表監督を経験後、1999年よりプロとしてNPCオークランドの監督に就任。

NPC(国内選手権)とは?
 ニュージーランドのラグビーシーズンは三つに分かれている。

  1. スーパー12(二月末から五月末)
  2. オールブラックスのテストマッチシリーズ(六月半ばから八月半ば)
  3. NPC (八月半ばから十月末)

 今回紹介するウェイン・ピバックが監督を務めるラグビーのオークランドチームが参加しているNPC (National Provincial Championship)と言われるニュージーランド国内の地区別対抗戦は、ニュージーランドを27の地区に分け、強い順にディビジョン1、2、3と3部に分け、各部でチャンピオンを決める大会。ディビジョン1はカンタベリー、オークランド、ワイカト、ウェリントン、オタゴなどが代表的なチームで合計10チームがある。シーズンになるとテレビ放映されるのはディビジョン1の試合。大会スポンサーはニュージーランド航空。
 今年はオーストラリアで開催されるラグビーワールドカップとNPCの開催期間が重なるため、オールブラックスの選手はNPCに参加できない。

ノースランドを2部から1部に引き上げた。
既存の選手の中で実力を発揮できる選手を発掘し、チームにフィットさせたことが成功の秘密。

 ニュージーランドのほとんどの子供たちが5歳でラグビーを始めますが、私もそんな一人でした。オークランドのノースショア、ノースコートに住んでいましたので、家の近くのラグビークラブだったタカプナ・ラグビークラブに行ったのです。ニュージーランドでは子供の頃はクラブでラグビーをやり、中学・高校生になると多くは学校のクラブに所属します。私はノースショアのウエストレイク・ボーイズ・ハイスクールでプレーしました。18歳で再びタカプナ・クラブに戻り、オークランド・セカンド・フィフティーン、オークランドコルツ(21歳以下代表)に選ばれました。
 ちょうど1985年にハーバーブリッジを境にオークランド・ラグビー協会を二つに分けることになり、私は所属クラブのタカプナ・クラブがハーバーブリッジの北にある関係で、新しくできたノースハーバー・ラグビー協会に所属することになりました。ですから私たちの世代はNPCノースハーバーのオリジナルなのです。85年から89年までノースハーバー代表でプレーしていましたが、89年のシーズン終了時にひざの怪我をし、90年は一年間のリハビリ、91年に手術をしましたが、結局引退することにしました。
 引退後すぐにタカプナ・クラブからファースト・フィフティーンの監督への要請がありました。94年までの在任期間中全シーズンで優勝できました。その後、95年、96年にノースハーバー・セカンドフィフティーンの監督になりました。
 97年にNPCセカンド・ディビジョンのノースランドの監督になりました。オークランドから車で北に2時間ほど行ったワンガレイをベースにしたチームでした。ここでの目的はディビジョン1に上げることでした。チームを見るとキーとなるポジションにいいプレーヤーがいませんでした。ニュージーランド国内からスクラムの核となるプロップやフィージーから足の速いウイングを見つけてきて補強しました。ただ個人的に優れた選手を見つけるのではなく、そのポジションのプロフェッショナルでノースランドのチームカラーにフィットする選手、つまり、既存の選手と絡んで実力を出せる選手を選びました。結果は見事に98年にディビジョン1に昇格できました。

ノースランドでの実績がオークランドの監督への布石となった
オークランドの監督に就任できたのはディビジョン2だったノースランドをディビジョン1に引き上げた後、オークランドの監督だったグラハム・ヘンリーから受けた電話。

 98年にNPCノースランドをディビジョン1に昇格させた直後、NPCオークランドの監督、グラハム・ヘンリーから直々に電話がありました。彼はその時まだ、一般には公表していませんでしたが、オークランドで監督の手腕が認められ、ウェールズの代表監督のオファーを受けていました。ウェールズと言えば、北半球の6か国対抗の強豪チームです。当時ウェールズはいい成績が残せず、苦しんでいた時期でした。そこで思いきって外国から監督を受け入れることにし、グラハム・ヘンリーに白羽の矢を立てたのです。グラハムはそんな状況の中で後任を探すことになり、私に電話をしてきたのです。
 私がオークランド・ラグビー協会で面接を受け、就任が決まると、グラハムはウェールズの監督に就任する記者発表を行いました。この発表はニュージーランド中を驚かせることになりました。グラハムは次期オールブラックスの監督と目されていた逸材でした。そんな逸材が海外へ流出してしまうのはニュージーランドラグビーの損失だと誰もが感じました。しかし、グラハムにしてみると、条件的にも、舞台的にも申し分なかったと思います。今までの実績を世界の大舞台で試すことができ、破格のギャラが受け取れることになったのですから。

結果を出さないと生き残れない
監督に就任することよりも、就任し続けることの方が難しい。結果が悪い時の責任は監督が取り、辞職しなければいけない。

 契約は三年でした。しかし、これは三年間は安泰と言うことではありません。結果が悪く、次のシーズンに繋がらないと判断されれば一年で首を切られます。監督が代わった直後は選手と監督の間でいろいろなことが起こりがちです。実際、99年のスーパー12のオークランド・ブルーズは新監督を招聘し、巻き返しをはかりましたが、選手と監督との間のコミュニケーションがうまく行かず、12チーム中9位という惨澹たる結果に終わり、監督は一年で解任されてしまいました。
 私がNPCオークランドの監督に就任したその年、99年は優勝できたのです。これは前任者のグラハムが残して行ってくれた財産のおかげだと思っています。その後、2000年、2001年は準決勝まで行きました。決して満足いく結果ではなかったのですが、この頃は若い選手を発掘し、徐々にチームに迎え入れている時期でしたので、2~3年後には結果を出すと宣言し、二年の契約延長となりました。そして、2002年には再び優勝できました。
 若い選手の中にはチーム内ですぐ自分の実力を出せる選手と時間をかけないと実力を発揮できない選手がいます。2000年、2001年はチームのスタイルにフィットしない若手ばかりだったのですが、2002年はそんな若手も慣れてきたせいか、また、新たにチームに入って来た若い選手は既存の選手のプレーとチームでの自分の役割を理解し、水を得た魚のようにすぐ実力を出すことができたのです。それが優勝に繋がったと確信できます。

いい選手は必ずしもいい指導者ならず
指導者に求められるのはプレーヤーとしての実績よりも管理能力。

 私を補佐するアシスタントコーチは元オールブラックスのグラント・フォックスです。1987年の第一回ラグビーワールドカップでオールブラックスが優勝した時のメンバーでキックの名手として知られています。監督の私よりもすばらしい選手時代の実績があります。そんな元一流選手が下にいると、監督をやりづらくないかと聞かれることもありますが、やりづらさは全く感じません。ラグビーがプロになった96年から、選手と同じように監督もプロとして結果が求められるようになり、指導者として求められるのは選手としての実績ではなく、管理能力なのです。過去にはオールブラックスの有名選手が国内、海外の有名チームの監督に就任していますが、必ずしも成功していません。今では「いい選手は必ずしもいい指導者ならず」という言葉は常識になって来ています。
 例えば、グラハム・ヘンリーは男子高校の校長先生で、ラグビー部の監督でした。特に選手として輝かしい実績はありませんが、NPCオークランドの監督に就任してからは、相手チームの分析に優れ、それを基に戦略を組み立てるうまさでは右に出るものはいないと言われました。また、96年にジョン・ハートは初めてオールブラックスの経験のないオールブラックスの監督に就任しました。もともと大手企業の人事担当で、ラグビーでも人材の発掘と活用に手腕を発揮しました。就任直後に過去のオールブラックスが達成できなかった南アフリカでの勝ち越しを成し遂げるなど、オールブラックスの一時代を作り上げました。さらに、現在のオールブラックスの監督ジョン・ミッチェルはオールブラックスには選ばれましたが、テストマッチと言われる国代表の試合には出場したことがありません。このように、指導者には情熱、ラグビーへの理解、頭脳、整った準備などがあれば、必ずしも一流選手であったことは求められません。もちろんテストマッチでのプレッシャーの経験はないよりあった方がいいのですが、もっと大切なものがあるのです。

今年のNPCオークランド
ラグビーワールドカップのため、今年はオールブラックスの選手がNPCに出場できない。

 キャプテンのザビアー・ラッシュ(Xavier Rush)はリーダーとして成長してきました。チームメートからも尊敬を集め、強いオークランドの復活が近付いて来たと感じられていたそんな矢先、彼に日本でプレーするオファーが舞い込みました。本人は迷っていたようでしたが、オークランド・ラグビー協会は新たに二年の契約を交わし、ザビアーの損失を食い止めました。
 また、この三年間に発掘、育成した選手は8人にもなり、ダグ・ハウレット(Doug Howlett)、ケベン・メアラム(Keven Mealamu)、マリリ・ムリアイナ(Malili Muliana)、アリ・ウイリアムス(Ali Williams)、ジョー・ロココロ(Jo Rokococo)は今年オールブラックスに選ばれ、大活躍しています。ブラッドリー・ミカ(Bradley Mika)、ダニエル・ブレイド(Daniel Braid)も昨年のヨーロッパ遠征でオールブラックスになりました。サム・トゥイトゥポウ(Sam Tuitupou)は近いうちに必ずオールブラックスに選ばれるといわれるほどの逸材です。
 ワールドカップに行くオールブラックスの選手は今年はNPCでプレーできませんが、だからと言って我々が勝てなくなるとは思いません。この数年の間に今までになく層が厚くなって来ているのを感じるからです。たとえオールブラックスの選手がいなくても安定して力を出せるチーム作りをし、才能のある若いプレーヤーをいつ、どのように既存のチームにフィットさせるか、これらは私の重要な仕事の一つですが、それがうまく機能すれば、80年代半ばから90年代初めの様なオークランドの全盛時代の再来を期待できると思います。オークランドが強い時のオールブラックスは強いと言うジンクスがあるのです。1987年のワールドカップで優勝できたのは強いオークランドがあったからなのです。2003年は5月にスーパー12でオークランド・ブルーズがすでに優勝していますし、NPCでも10月末にオークランドが優勝できれば、ワールドカップでのオールブラックスの優勝も可能性が高くなります。
 私自身の次のステップはスーパー12のどこかのチームか海外でのコーチングだと思っています。NPCオークランドはすでに5年にもなります。そろそろステップアップの時期だと思います。いつかはオールブラックスの監督も夢としてありますが、それはラグビーの指導者ならば誰もが持つ夢だと思います。それよりも、今は好きなラグビーでお金をもらい、生活していけることでラッキーと思っているくらいです。

ラグビー国内選手権NPCオークランド監督:Wayne Pivac さんと連絡を取りたい、勉強したい、体験したい、資格を取りたい、この分野で仕事をしたいと言う方はイーキューブ留学セクションまで、お問い合わせ下さい。

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