Vol.69 時代を飾るキウイ TV/ラジオプレゼンターMary Lambieさん |
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日本とニュージーランド。一般的にはこの両国間に深いつながりがあるように思えないかもしれない。特に日本に住んでいると、ニュージーランドを身近な存在と感じる機会はそれほどないだろう。しかしこの2国には意外と強い関わりがある。例えばニュージーランドにとって日本は主要な貿易国のひとつであり、初等・中等教育で日本語を学ぶ生徒もほかの英語圏の国々と比べ、際立って多い。また、自治体同士の交流も活発で、北海道小樽市とダニーデン、岡山県倉敷市とクライストチャーチなど、46市町村が姉妹都市提携を結んでいる。こうした友好関係にある自治体は、英語教師・日本語教師を互いに派遣し合ったり、国際文化に関するイベントを共同開催したりと、教育・芸術・スポーツ等々、さまざまな分野の活動をともに行っているのだ。北島南西部に位置するワンガヌイと静岡県駿東郡長泉町は1988年9月に姉妹提携に調印。その翌々年の1990年から現在まで、途切れることなくワンガヌイから英語教師が来町している。ニュージーランドのメディア業界で長いキャリアを持つメアリー・ランビーもその1人。長泉町の暮らしが気に入ったメアリーは、当初の予定を延ばして3年間、日本に滞在したという。英語教師のほか、ラジオ・ニュージーランドの日本特派員としても活躍したメアリーに、お話を伺った。
「桜」に惹かれて日本へ 英語教師としてワンガヌイから長泉町に派遣されたのは1991年4月。もう16年も昔になるんですね。でも、日本での日々はとてもエキサイティングだったので、今でも昨日のことのように思い出されます。思えば、私は幼い頃から日本に対して興味を持っていました。そもそものきっかけは10歳の時、授業で「桜」について習ったこと。こんなにキレイな花があるのかと感動したんです。それからクラスメイトにミカ・イトウという日本人の女の子がいて、仲良くしていたことも大きかったかもしれませんね。子供の時分の記憶なのではっきりしないのですが、確かミカのお父さんは駐ニュージーランド日本大使をされていたんじゃないかな。よくミカのうちに遊びに行き、日本料理をご馳走してもらったことを覚えています。中等教育を終えてからヴィクトリア大学に進学し、心理学を専攻。勉学の合間には学生ラジオおよび新聞の活動を行っていました。それでメディア業界に関心を抱くようになり、卒業後はハミルトンのラジオ局に就職。出張でワンガヌイのラジオ局にも頻繁に出入りする機会がありまして、その縁で英語教師に選出されたのです。 ずっと日本に憧れていましたし、ニュージーランドを離れて冒険をしたいという気持ちもありましたから、嬉しかったですよ。もう喜び勇んで日本へ向かいました。長泉町は想像以上に素敵な町で、受け入れ先の担当者が用意してくれた私の部屋の窓からは富士山が望め、その雄大で優美な山容に感動しました。ただ、来町して最初のうちは、意思の疎通をするのにかなり苦労しましたね。私は日本語を話すことも読むこともままならなかったし、町民たちも英語をあまり理解できませんでしたから。だいたいその当時、県内には外国人自体がほとんどいなくて、長泉町に私1人、沼津市にも3人だけだったんですよ。その分、相当ディープな異文化体験ができましたけどね。私は町内にある2校の中学校でクラスを受け持ったのですが、日本とニュージーランドとでは教育制度が大幅に異なるので、そうした面でも戸惑うことが多々ありました。とはいえ、言葉が通じなくても町の人々は親切にしてくれましたし、生徒たちとも打ち解けて、課外活動にも参加しましたよ。一緒にマラソンをしたり、遠足に同行したりね。この課外活動のお陰で、静岡県内を一通り見ることができました。プライベートではよく山歩きに出かけましたね。とりわけあの美しい富士山に登頂したことは、忘れられない思い出になりました。 静岡県は最高の場所 日本滞在中、ラジオ・ニュージーランドの特派員も務めていました。インターネットが普及していない時代でしたから、週に1度、電話でのリポートでしたね。バブル期だったので、経済やビジネスのニュースをよく取り上げました。ほかには社会ネタとか地震など災害の速報とか。また、その頃のニュージーランドでは、日本の実情がよく知られていなかったため、日本人の習慣や私が体験したカルチャーショックのエピソードもリスナーに好評でした。日常生活の中からおもしろいトピックスを拾うリポーターとしての能力は、この時期に身についたように感じます。 当初、私は1年間日本で暮らしたら、ニュージーランドに帰ろうと考えていました。ところがあまりにも居心地がいいので、気がついたら3年も経っていたという感じです。着物の着付け教室の先生とも親しくなり、彼女とはその後、海外市場に向けた着物ビジネスを立ち上げましてね。その関係もあり、帰国した後も、何度か日本を訪れています。そう、今でも私にとって、日本は近しい存在なのです。着物の先生が仕事を兼ねてニュージーランドにやってきたこともありますし、彼女と2人で着物の紹介をするためにマレーシアのクアラルンプールへ飛んだりもしました。来年は彼女の教室が開校20周年を迎えるので、着物ショーを開催する予定なんです。手伝って欲しいと頼まれていますから、また日本へ行くことになると思います。日本にいる3年の間に、全国各地をあちこち旅行し、最後の1年は新潟県に移り住みました。なぜ引っ越したかというと、日本人のボーイフレンドができましてね。彼が新潟県に住んでいたからなんですよ。どこも素晴らしいところだったし、新潟県での生活も充実していたけど、やはり私は静岡県が一番気に入っています。伊豆半島や富士山といった景勝地があり、海も山も温泉も近くて、東京へのアクセスもいい。住むのにも旅をするのにも、最高の場所だと思いますね。 ラジオやテレビで「今」を伝えたい ニュージーランドに帰国後は再びメディア業界に戻り、ラジオと並行してテレビのリポーターとしても働き始めました。キャリアの大きな転機となったのは1997年。TV ONEのオーディションを受け、ニュース番組『Good Morning』のホストに抜擢されたことです。この仕事は非常にやりがいがあり、毎日が刺激に満ちていました。特にインタビューは楽しかったですね。番組を通して、世界中のありとあらゆる分野の著名人に会うことができたのではないでしょうか。何しろ、年間およそ3千人に取材をしていましたから。私はニュースをリポートすること、そしていろいろな人々とコミュニケーションをとることが得意だし、大好きなんです。前述した通り、私がメディアの道を歩んだのは、学生ラジオと新聞に関わったからなのですが、当時の仲間たちは大半が新聞業界に進んだんですね。でも私はラジオを選んだ。なぜなら紙媒体が伝えるのはいつも「事後」のことだから。それに比べて、ラジオは「今、この場で起きていること」を聞き手に届けることができるでしょう。そのライブ感がたまらないんです。 また、ラジオが音声のみなのに対して、テレビには映像もつくので、さらに鮮明に「今」をリポートできる。そして、日本でリポーターをしていた時もそうでしたが、ニュースの取り上げ方次第で、視聴者からの反応も変わるんですよ。これがおもしろくて、もう夢中になりました。『Good Morning』のホスト役は、2004年に番組の制作拠点がウェリントンに移るまで、7年間担当しました。その間、私はパートナーのジム・モラと長女のグレースをもうけ、さらに双子のジャックとエリザベスを授かったため、以後は仕事をセーブしています。現在の主な仕事は、『Sunday News』で連載している健康とフィットネスに関するコラムの執筆と、会議やイベントでのMC業務。育児中心の生活をおくっていますが、子供たちがもう少し成長したら、テレビの仕事を再開したいと思っています。雑誌を読むのが趣味なので、マガジン・ショー、あるいはトーク番組を手懸けてみたいですね。余暇にはマラソンにはまっています。子供たちが眠っている早朝にトレーニングをしているのですが、ひんやりとした清々しい空気を吸って走るのは、気持ちがいいですよ。冬は日の出の時間が遅いので暗いし、寒いけれど、これからは絶好のマラソン・シーズンの到来です。過去にはタウポ・マラソンに2回出場し、昨年はニューヨーク・マラソンにも参加しました。来年の4月にはロンドン・マラソンへ出ようと準備中です。マラソンはもちろん、家族と行く海外旅行が、とても楽しみ。ジムはあまり運動を好まないのですが、その分、私をサポートしてくれるので助かっています。子供たちも体を動かすことが好きなので、いつか母子でマラソンができたらいいですね。その時は、長岡町を一緒に走った可愛い日本の生徒たちの面影を、重ね合わすかもしれません。 この分野で仕事をしたい、留学したい、体験したい、資格を取りたいと言う方はイーキューブ留学セクション、イースクエアまでお問い合わせ下さい。 |