Vol.92 時代を飾るキーパーソン TravelCareers&Training;フライト部門責任者 |
ニュージーランド有数のツーリズム&フライトアテンダント専門学校、Travel Careers & Trainingでフライト部門の責任者として、新人を一人前のフライトアテンダントにまで育て上げる事に情熱を注いでいるナターシャ。現在のカリスマ的な教官としてのステータスに登りつめるまでには、常に前向きな姿勢と強い向上心があった。 人との出会い、触れ合いが活力の源、と言う彼女の37年分のライフストーリー。
カトリック家庭出身のアクティブな少女。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 私はインドのムンバイ郊外、バンドラというキリスト教の町に生まれ育ちました。 大学卒業後、インドの5ツ星ホテル、ラマダ・インにレセプショ二ストとして就職しました。月給500ルピー(1NZドル=30ルピー)というひどい薄給でした。 それでもそこで接客の経験を得ることが出来、6ヵ月後には、インドの国内線航空会社イーストウエスト航空のフライトアテンダントになれました。 とにかく、一生懸命に働きましたね。毎日が新しい経験の積み重ねで、張り合いがありなした。そんなハードワークが認められ、アテンダントになってたった1年でパーサーに昇格しました。その3年後、中近東のオマーン航空に国際線乗務員として転職。生まれて初めて家を離れ、自由な楽しい生活を8年間楽しみました。 振り出しへ逆もどり。 オマーン航空時代にデュバイで出会った夫と結婚してニュージーランドに移住したのは7年前のことです。ワークビザは比較的簡単に入手できたものの、2人ともなかなか良い仕事に就けませんでした。13年もフライトアテンダントの経験があるのに、その海外での経験はなかなか認めてもらえなかったのです。一からやり直しを強いられました。それでレストランのウエイトレスとして一年ほど働きました。 でも、そんな逆境もステップアップするための肥やしと、ポジティブな解釈をし、一生懸命に働きました。実際、早口なキウイ人の英語、アクセントに慣れたり、地元のワインや特産物の知識を得るなど、収穫は大きかったです。 そして、1年数ヵ月後、スカイシティのカジノでシフトワークをしているとき、運良くニュージーランド航空に就職。空港でのチェックイン係となりました。フライトアテンダントだった頃、よく同僚とグラウンドスタッフの仕事を軽視していましたが、自分がグラウンドスタッフになってはじめて、実はそこには機上の人間には分からない苦労があることを知りました。また乗務員では得ることの出来ない、エアラインの実情に関する知識も得ました。 その1年後に、現在のTravel Careers & Trainingで新人のフライトアテンダントを養成する話がまい込みました。そして現在、フライトアテンダント・コースの責任者として全体を監督しています。 学生の個々の自信を築き上げる手助けをするのが私の役目。 フライトアデンダントで一番大切なのは、個々が自信を持つということです。堂々と、たとえ百人の前でもはっきりと自分の意見を述べ、行動できないようではいけません。乗客の中には、穏やかながらもきっぱりとした強い態度で接しなければならない人もいます。フライトアテンダントは制服姿もカッコいいし、グラマラスなイメージがありますが、実際は人に仕えるきつい仕事です。毎日毎日、違う人、違う出来事に出会いますから、柔軟でなければなりません。また、どんなにいやな事があっても、悲しいことがあっても、ポーカーフェイスでいなければなりません。そんなプロ意識は個人の自信から生まれると私は信じています。そしてそんな自信を、訓練を通して新人に植えつけるのが私たちの役目です。 私のライフストーリーが助けになれば幸い。 現在の世界的な不況の中、思うような職に就くのは難しいことです。でも、どうかあきらめないでください。私は学校で学生たちに、フライトアテンダントになるまで、カスタマーサービスの経験を積むのもプラスだとアドバイスしています。少しずつ小さなステップを踏んで、あきらめずに前進して行くようにとアドバイスします。 私はフライトアテンダントとして13年の経験があるのに、ニュージーランドでは一からやり直しをしました。いくつものステップを踏んで現在のポションにたどり着いた私のストーリーが、フライトアテンダントを目指す方々やキャリアアップを目指す女性たちの励みになってくれれば嬉しいです。 この記事を読んで、トラベル系の留学やフライトアテンダントになるための留学をお考えの方はイーキューブのキャリアアップ留学センター「イースクエア」までご連絡ください。 |